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第1回 プータローから

水戸芸術館の学芸員に

 さて、これから、アートや美術、美術館、学芸員などについて、黒沢さんがご自分の目で、一体何を見てこられたのか、その世界を案内していってくださるわけだが、その前に、黒沢さんご自身はどんな方なのか、ちょっと紹介してみよう。

 

  20代は、バンド活動をしていたプータローだった

 

-学生時代から、ずっとバンド活動をされていて、ずっとバイトをしながら、バンド活動をされていたわけですよね。

 

「今で言うと、フリーターなのか、プータローなのか、そういうものですよ。ときがいわゆるバブルですよね。ちょうど大学を出て、普通だったら就職するみたいな、それが80年代の半ばですから、本当に最後のバブルに向かっていく頃なんです。

 

 その頃にずっとバンドやっていて、当時『いかすバンド天国』っていう、テレビ番組が始まるんですけど、残念ながら、その『いかすバンド天国』がちゃんと始まる前に、バンドのほうが、ほとんど、空中分解で解散するような感じだったので、結局、バンドの活動は、そのまま継続できなくなっちゃったんだけど、もちろん、バンドやっていると、ライブが定期的に入ってくるし、練習しなきゃいけないし、ちゃんと普通に就職して仕事できるわけないじゃないですか。

 そもそもイメージの中に、自分が就職してってことは、金輪際入っていなかったですから。でもバンドやろうとすると、楽器も買わなきゃいけないし、楽器買っちゃったら、借金返さなきゃいけないしとか、全く何の収入もなしっていうわけにはいかないんで、大工さんやったりとか、先生やったりとか、道路のお掃除してみたりとか、いろんなことをやりながらバンド活動していたわけなんですよ。

 

 それからそのバンドも、長く続けようったって、メンバーがアルバイトくらいしかしないんで、だんだんお金がなくなってきちゃうんだけど、当時たまたま、1人大黒柱がいたんです。経済的な。バンドのメンバーの1人。その人ね、歯医者さんだったんですよ。結構それなりにお金の融通が利いて、原則、割り勘にしても、スタジオから何から、非常のときには、その歯医者さんにどうにか面倒見てもらえていて、バイオリンをやっていたパートの人だったんだけれども、その彼が、世界一周旅行に彼女と一緒に出掛けてしまいました。

 

 そうすると、バイオリンという非常に大事なパートが、いなくなっちゃったということも含めて、みんなお金もないし、みたいなのが、だんだん切羽詰まってくるわけ。事実上、そのバンドもいろいろな曲を作ってやっていたけれども、ある程度のピークも過ぎた時期でもあり、事実上、空中分解みたいになってた時期と、水戸芸術館っていうのが、オープンして、人を募集する時期が、ほぼ一致するんです。」

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