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第11回 美術館は原発に似ている

 美術館についての話が進む中、黒沢さんの口から、美術館は原発に似ているという、過激な(?)発言があった。一体、それはどういう意味なのだろう。それは、黒沢さんのおっしゃるイデアと幸福論と深く関わりのあるものであった。

  作る側が、共生していないという皮肉

 

 「例えばすごく不思議なのは・・・共生っていう言葉。あるでしょ。結構、90年代の後半くらいから、2000年の前半ってものすごくはやるんです。共存とか、共生とか。今でもそうですよね。いろいろな多様性とか、共生とかっていう言葉っていうのは、今でもすごく言われるけど、21世紀になって、ものすごいはやったと思う、日本でも世界中でも。

 美術館なんかも、そんな言葉よく使ったと思うんです。共生社会へ向けてっていうようなテーマで。そういう言葉がキーワードになるような作品を作る、作家たちの活動っていうのがいっぱい出てきたっていうこともあってだと思うけど。でも、そういうことをテーマにして展覧会をやっている人、あるいは周辺の人たちが、全然共生できていない。

 美術館で仕事をしているキュレーターの人たちが、場合によってはいがみ合いながら、ぎすぎすしながら、そういう展覧会を作っていっている。これって一体どういうこと?って、やっぱり思うわけ。そうするとね、共生イデアっていうのができ上がっているわけですよ。美のイデアと同じように。共生ということのイデアが現れている。

 そうすると、そこに対して、ネガティブに見えるような反応をする人たちのあらゆるものが、攻撃対象になっていっちゃったりするわけでしょう。もっとみんなで平和に・平等に共存しなきゃって言いながら、でも自分でもそれができてないんだよね、なかなかね。

 共生をテーマにして、それこそがこれからの社会に大事なんだって言いながら、展覧会を作ろうとしているような人たちが、自分の組織の内側ですら、がたがたさせちゃったりして、場合によっては心が病んじゃったり。

 

 -でもそれは、すごくありがちなことですね。

 

 「でしょ。だから、その芸術性とか、イデアを追い掛けるということと、幸せということは、ちょっと別に考えておかなきゃいけなくて、一方で、この幸福論を持つということは、とても大事だと思っているわけです。

 えてして美術館みたいなものは、どちらかというと、こっちのイデアに寄り過ぎるところがあって、素晴らしいものは、素晴らしいんだっていうことを追い掛け過ぎるところが、やっぱり、あると思いますね。

 僕も、いろんな美術館を訪ねるじゃないですか。作品を借りる相談に行ったり、ワークショップの相談に行ったり。あるいは、いろいろ事前の調査で行ったり。中の組織の様子とか、オフィスの様子とか見るよね。なんかやばい空気が漂っているな、ここはみたいな所が、どことは言わないけど、あったりするわけですよ。

 どうして文化に関わって、美術に関わったり、音楽に関わったり、表現に関わっている人たちが、こんな状態でいるのかと。おかしいでしょ。芸術が心の糧、なんて嘘じゃん、みたいな。そういうことが多々あって、そのやっぱり2本柱、もう一つのこっち(幸福論)をきちんと見ていないといけないよねって。」

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