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第13回 アーティストと学芸員の関係は、

​作家と編集者に似ている

 学芸員とは、一体、どんな人たちなのだろう。そして、アーティストと、どのように関係を築くのだろうか。そして、学芸員とアーティストの間には何が生まれるのだろう。お話を伺ってみた。

 

 -学芸員として、アーティストの方たちと関わってきた機会というのは、多かったと思うんですが、拝見したインタビュー記事で、そういう才能とか能力のあるアーティストと仕事をしていると、自分も自分を改造するくらいに力を出さなきゃいけないことがあって、というような表現があったんですけど、具体的に学芸員の方とアーティストの関係っていうのは、例えて言えば、作家と編集者みたいな感じなんですか。

 

 「似てますよ。作家と編集者に似ていると思う。すごくよく似ていますね。だから、場合によっては、編集者のほうが上っていうか、むしろ編集者のほうが力を発揮しちゃう場合がありますよね。」

 

 -引っ張り上げるというか。相手を引き上げるというか。

 

 「そういうことです。だけれども、作品の正体は、アーティストが作っているわけなので、編集者は、作品の正体、ある種のそれこそ芸術性を上げていくための、結果的に手助けをしている。あるいは、作家の力量が圧倒的だった場合、編集者のほうが、もう参りましたっていうパターンもあるかもしれないし。よく似ているような気がします。

 やっぱり、アーティストは、別に万能な神さまでも何でもないので、自分でしなきゃいけないことを、完全に見きっていない場合もあるわけですよ。ただ、こっちの方角、方向だとか、こういう漠としたイメージだとか、あるいは、取りあえず、これだということは分かるから、作品を作ることはできるんだけど。

 

 例えば作り始めてるとしますね、そうすると、キュレーターのほうから、『そういうことがしたいんだったら、こうすれば良かったんじゃないの? 僕も今日まで見せてもらえなかったから、こうなるとは分かんなかったし、だから別な場所のことをこの前、説明しなかったけれども、今日見せてもらって、その場所に置くよりも、こっちの場所のほうがいいと思うよ』っていうふうに言ったりするわけ。

 アドバイスというか、ガイダンスというか、別な可能性を。そのときに、『あ、本当だ、こっちの場所のほうがいいわ、ぜひこっちにするよ』というパターンもあるかもしれないし、『いや、違うよ、そうじゃないよ』と、『おまえ、全然、俺のやろうとしていることを分かってないな』みたいなこともある。

 

 そうすると、『全然、俺のやろうとしていることを分かってないじゃないか』っていう言葉はすごく大事で、作り手にしてみれば、その言葉を言うことで、自分のすべきことが、より強固になってくるわけ。そういう関係です。

 そうやって、より強固になってくればくるほど、逆にキュレーターのほうも、ああ、こんなことをやろうとするから、てっきりこっちのほうがいいのかと思ったら、違うのか。だとしたら、自分の考えは違っていたな、彼のやることは違うんだな、っていうことに気が付いて、そっから先、あらためて『だったらさあ』って話が出てくる。

 そうやってアイデアをぶつけ合いながら、その作家が本当にやろうと思っていたり、見ようとしていたものを、一緒に見つけていくわけです。それを最終的には、展覧会の形だったり、作品の形だったりに、リアライズしていく、サポート役みたいなところがあるね。ただ、いかんせん、キュレーターとか、学芸員の人たちは、一方では社会とか組織に片足を突っ込んでいるどころか、どっぷり浸かりこんでいるところもあるので、そこで問題になってしまうような無理難題に関してはなかなかできないわけ。

 どうやったところで、火の玉を、美術館の真ん中で、ぼーぼー燃やすと言われたら、消防法上それはできないという、その矛盾をどうにか整合性を取れるようにして、なおかつ、アーティストが見つけようとしているものを、リアライズする。だけどそれが法的にも問題ないところまで、擦り合わせしていかなきゃいけないとかっていうところは、まあ、ありますよ。」

 

 -じゃあ、アーティストが作品を生み出していく上で、社会性とか現実性と折り合いを付けるためにも、必要な役割って感じですよね。

 

 「ただ、その妙な社会性なんてものが、このテーマの作品に本来必要なのか?っていう場合に、あえてその社会性のようなことを無視して、周りから怒られようが何だろうが、火を燃やすっていう場合が、どうしても必要な場合だってあるよね。

 燃やしたら、消防法上駄目です、って消防署が怒鳴り込んできたと、それが新聞沙汰になった、というときに、本当にそれは駄目なことなんでしょうかねっていうところまで表現しないと、見せられないものも場合によっては、あったりするわけ。

 そういう意味で、アーティストが賭けているのと同じくらい、自分もブラッシュアップして強くなっていかなきゃ、物事できない。および腰のままじゃ無理だし、それまでの自分の常識としては、ここまでに押さえとかなきゃいけないと思っていたものすら、超えてかなきゃいけないことがある場合は、ある。」

 

 -本当に、お互い成長するというか、高め合うんですね。

 

 「良い関係であれば、そういうことですね。もちろん、その良い関係こそ目指されるべきだけど。」

 

 -その美術館にその作家の作品が展示されているというのは、やっぱり、個人の学芸員の方との信頼関係がベースになるんですか。

 

 「基本的には、そういうことが多いと思いますよ。表現を介しての信頼関係ですけど。ただアーティストの数ほど学芸員の数はないので、ちょっとアーティストに不利かもしれませんけどね。客観的には。っていうのはやっぱり、学芸員も魔法使いではないので。」

 

 -それ以外の仕事もたくさんありますよね。事務的なものとか。

 

 「もちろん。それだけじゃなくて、それだけの学芸員が、全てのアーティストがやろうとすることを理解できるかっていったら、理解できない人もいるわけですよ。それは学芸員とか、キュレーターの力量なんだけれども、生理的に嫌なものを受け付けないとかっていうことも人間持っちゃっているし、そうすると、ある種のアーティストのやることが、生理的に嫌だっていう場合には、もう受け付けられないから、その作家がどんなに良い活動をしようとしても、無視されちゃうとか、関わってもらえないとかいうことがあるかもしれないですね。」

 -どうしても好きになれない作品を作るアーティストだったら、困っちゃいますよね。

 

 「逆に、どうしても好きになれないってなると、興味持っちゃったりするんだけどね。どちらかっていうと、箸にも棒にもかからないと思っちゃうことのほうが、ありがちで、ときどき、それが危険なことだったりする。箸にも棒にもかからんと思ったけど、実は、そうじゃなかったっていうことに、後から気が付いたりとかね。気付けるならまだいい方だけど。」

 

 -あるんですか、やっぱり。

 

 「あるでしょ。全然気が付かなかった。何をしようとしているのか、ようやく分かったよ、5年目にして、10年目にして、っていうことだって、それはありますよ。

 誰もそんな、全てを客観的に眺めて判断できるような人なんていないです。客観的になんてのは、本来なれないはずのことだから。取りあえず、お互いの共通言語として、認識するために、イデアルなものとして、客観性という言葉を用意して、それに向かって、何が客観的な事実であるのかを見いだす方法を一生懸命考えて、一致する言葉を見つけ出しましょうみたいなときに、『客観』っていう言葉は成立するけれども、でも、本当の客観ってないわけですからね。

 人間って、そういう者同士の、つながりとか出会いとか、右往左往の中で物事をしていっているので、美術館もまたそういう場所。博物館もそうだし、動物園だってそうだろうし、って感じでみんなそうなんじゃないかな。普通のお店だってそうだし、会社だってやっぱりそうだし、学校もそうだし。そうですよね。」

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