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第16回 エピローグ

 最終回は、私が個人的に聞きたかったことを伺ったり、また聞いていて、なるほど、と思ったトピックをアラカルト的に集めて、お送りする。

 

  伝えること・表現すること

 

 私も伝えるということが好きだから、こういうことをしているわけなのだけれど、伝えようと思ったことと、受け取られたことにギャップを感じることがある。伝えるということのプロである黒沢さんに、そのあたりのことを伺ってみた。

 

 「どうしても、その部分は伝えなければいけないっていうところがあるならば、それはやっぱり、できるだけ、そのままを伝えないといけないですよね。例えば文章の場合は、特にそういうことが多いと思うんですけど、美術の作品であるとか、音楽の場合には、その伝えたいという部分があるから、作品が出来上がるんだけれども、出来上がってみると、その伝えたいと自分が思っていたというものというのは、実は、その作品を作らせるための、きっかけに過ぎなかったんじゃないかと。

 こういう考え方で、こういうコンセプトの作品を作るんだと言って、あるアーティストが作品を作ったとします。でも、その出来上がりの結果を見ると、それは、方便ではなかったのかなって。もしかしたら、今リアライズをした、これを作ろうとしたときに、神さまが作れと命令を下すために、何かその方便を、そのアーティストに与えたんじゃないかなと思うことはあったりしますね。

 その場合には、結果的に、アーティストが考えていたとか、コンセプトはこうであるということは、取りあえず、いったん、棚に上げておいて、でもその作品に出会った人は自由に持って帰っちゃっていいんだと思っているんですよ。違う読み取り方をしたとしても。

 ましてや、そのアーティストとは全然違う家庭、国、環境に育ち、違う経験の人が、作り手の思惑と同じものを持ち帰るって、それは無理だよ、ということは当然あるでしょう? ただ、そういう別な人の立場、経験から見たら、そのでき上がった全く同じものが、全然別な、違う面白い受け取られ方をして、持ち帰られる、かもしれない。でもその方が、いいんじゃないですか? それでいいんじゃないですか? と思ったりはしますけど。

 文章で、どうしても伝えなければいけないことがあるとして、これというありありとしたようなものがあるとして、で、書いて伝えて、でも、それが伝わらなかったとしたら、申し訳ないけれど、それは表現力不足だということになりませんか? あるいは、読み手の解釈力不足ということになりませんか?

 でね、難しいと思うのは、自分が、これが正しいと思っているその正しいことを、例えば言葉に直してそのまま書いてしまうと、何も伝わらない・・・ということがある。伝えたいことは、何々ですか? かくかくしかじかこうこうです、という場合、そのかくかくしかじかこうこうです、を書けばいいはずですよね。

 でもその通りに書いても、何も伝わらない。なぜそう考えるかのベース、あるいはバックボーンの場所にまで、読み手を連れてこれなきゃいけないじゃないですか。ある程度、同じバックボーン、土俵の上に乗ってもらう準備をしないと、文章の前段階で。その上で、具体的な事例とか、あるいは、例え話を交えながら、起こってほしい、理解・解釈してほしい方向へ持っていって、最後に言い当てた言葉を持ってくるとかしないと、とてもじゃないけど、いきなり答えをぽっぽって書いておいても、『はあ、そうですね、もちろんそう思ってますよ』って言われて、おしまいになっちゃうわけですよね。

 だから、それはとても難しいことだと思うんです。しかも、文章が長くなれば、それを読むのに耐えることのできる、精神状態でいる人っていうのは、かなり少なくなるし。最初から読もうとする側の態度の問題だってあるし。だったら、短いポエムのほうがいいっていって、3行詩に直して、ようやくどうにかなる、あるいはそれでしか伝わらないっていう表現もあるし。

 もちろん、小説で、10冊分でようやくたどりつくという場合もあるだろうけど。そういうものなんじゃないですか、文章って。なので、それは書き手の文体、得意とする文体で勝負していくことになるんだろうと思うんだけれども、僕なんかは言いたいことの中心に対して、周辺の、このあたりの言葉を出していって、次にこのあたり出していって、次にこのあたり出していって、さらにこうやって出していくと、ようやくその周辺までは固められる。そういうふうなくらいなことまでしか、なかなかできないですけど。」

  違いをどのようにとらえるのか

 

 いろいろなことが違う人たちが集まって、一つのものを作っていくというのは、とても大変なことである。同じ言葉を使っていても、そこに込める意味合いが違ったり、それこそイデアルな方向に突っ走ってしまったり。今回のインタビューの中に、そういうことを考えていく上で、ヒントになるのではと思う言葉があった。

 

 「美術館って、いろんなボランティアの人たち来てくれるじゃないですか。水戸にいたときも、作品の、必ずしも学術解説をするわけじゃないんだけど、作品見ながら、一緒に見て回りながら、来た人たちと楽しんで見て回ることをやってくれる、ボランティアの人たちがいました。ところで、展覧会を作るときって、作り手は、例えば作品を右に置くのか、左に置くのか、あるいは、これらの作品を後で見るとか、先に見るとか、すっごいこだわるんですね。

 『右か左か、いやどうなのかな』とか、『これ入れ替わっちゃ駄目なんだよな』とか、『これじゃなきゃな』っていう話をしていたときに、『黒沢さん、どっちでもいいじゃないですか』って言われたんですよ、そのボランティアの中のある1人に。『どっちでもいい? 僕がこんなにこだわっていることが、どっちでもいいんだと?』みたいな。そのときに初めて、そうか、これほど重要なことが、どっちでもいいっていう地平があるんだ、人間には・・・と気が付く。どっちでもいいのか。それは面白いっていうか。

 でも、僕はもちろん、どっちでも良くないんですよ。自分にとっては、どっちでも良くはないんだけど、これほどこだわんなきゃいけないと自分が思っているものごとに関して、そんなのどっちでもいいと言える、そういうスタンスの取り方っていうか、立ち位置があり得るんだ、なるほど、みたいなね。

 自分のこだわりそのものが、どういうものか客観視させてくれるから、ありがたいんですけどね、そういう言葉っていうのは。それ以来、『どっちでもいいじゃない』っていう言葉が、好きになっているんです。どっちでもいいじゃないっていう言葉って、結構いいなあと思って。」

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