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第6回 そもそもアートって。

 ここから、いったん美術館談義から離れて、アートというものについて、少し考えてみたい。待たせていただいている間に、館内にあったアートの本をぱらぱらと見せていただいた。その本を見ていて、あらためてアートって何なんだろうという疑問が湧いてきた。私が手に取っていたのが、現代アートの本だったこともあり、黒沢さんは、現代アートを例にとって、アートというものの一面についてお話をしてくださった。

 「もちろん人によって違う、作品によって違う、国によってもいろんな面で違うけど、分かりやすく言うと、トータルとしては、何が変わってきているかというと、やっぱり感受性の実験をしながら、変わってきているんですよね。

 あるときまでは、何これっていうようなものが、時代が経つと、何てきれいなんでしょうってなる。やっぱり、人間の感性が、進化しているわけじゃなくて、重なって、種類が豊富になってきているんですよ。かつてのものにいろいろ加えて。それだけ複雑化しているし、枝葉のように分かれながら、いろんな感受性が、新しく芽生えているというのは、確かだと思うんです。

 ゴッホがその当時受け入れられなかったことが、今のわれわれには、信じられないですよね。一度自転車に乗れるようになってしまうと、乗れなかったときの身体をもう、取り戻せなくなる、というような意味での、感受性の実験だし、変化なんだと思うんです。実を言うと。そのことによって、やっぱり社会が変わっていきますよね。

 でも、その大本の原因をつくっているのは、アートではなくてどちらかといえば、もしかしたら技術とか経済かもしれない。例えば、さすがにこれほどスマホに囲まれながら育ってしまうと、もうかつてのように、テレビだけだった人とは、やっぱり感受性の上で、なにかしら変化が起こるだろうと。今はまだ、生まれたときからスマホの子どもたちは、子どもにすぎないかもしれないけど、彼らがじゃあ、40なり、50歳なりのときまでには、やっぱり変わらざるを得ないだろうなと。

 良くも悪くも食べる物も違ってきて、生活習慣が違ってきて、山の中に人が入らなくなって・・・。そもそも例えば物事が大量生産化されて、同じ物が同じ質で、たくさん出回るようになって随分、変わったはずなんです。18世紀半ばくらいからかな。

 そういうことがあって変わってしまったせいで、印象派も現れたし、その後のキュービズムとかも現れたし、ピカソたちも現れたしって、物事変えてきたのは、彼らが変えたんじゃなくって、彼らがいたその環境自体が変わった、そのベースが変わってしまった結果、そこで生きてゆこうとする人間が、変わらざるを得なかった、そのことを素直に表そうとした結果が、ああいうのだと。

 そうすると、今、全然、訳分かんないのがあったとする、でもその訳分かんないっていうのは、素直に試しているからだと思うんですよ、作り手が。要するに、必ずしもこれがいいんだ、これが素晴らしいんだ、ねえそうでしょ、っていうのじゃないんですよ、あれ。

 素晴らしいってことが、あらかじめ分かっているものを、その通りに作れば、それはそうなるのかもしれないけど、そうしたことは実は目指していない。やり始めたらどうしてもこうなる、でも、何だこれ?!みたいな。そういうことが、現代アートですね。

 もちろんそれはね、現実にはそんなにシンプルなものじゃなくて、もうちょっと『受けないかな』とか、世話になっている画商さんをもうけさせてやらなきゃとか、家族抱えているし、あと3点くらい売れてくれないと、とか、理解されるために、無意識のうちに人にも自分にもこびを売ったり言いわけするようなまねもするので、アートだからといって、決して純粋なものばかりではないんですけども、というか、ほとんどの人は不純なんですけど。」

 

 -ああ、そうですか。

 

 「ほとんどの人は、不純でしょう。不純な中で、どうにか純粋性を、少なくとも、ここだけはこだわるという気概で維持しているんだと思うんですよ。人間ですから。なので、そんなにこう、神さまみたいな人たちばかりじゃないっていうか、ほとんどは神さまじゃない人なので、それでも、守りたいというものを守りつつ、でもあとは、つじつまを合わせたり、現実に立ち向かうべく折り合いをつけながら・・・ということをアーティストもやってますよね。」

 

 -それは、分かってもらいやすくするっていうことですか。

 

 「う〜ん、相手によって分かってもらいやすくする必要のない人も、世の中いますけど。例えば、ヨーロッパみたいな貴族社会になると。やっぱり貴族の人たちは、貴族なんですよ。いまでも。全然、いわゆる大衆とは違うんです。言ってみれば、嫌な言葉だけど、高級品なんですよ。で、そういう人たちは別に、難しいとか難しくないとか、分かりやすいとか、にくいとか、案外関係ないですね。なんか別なものなんですよ。こだわりが。」

 

 -自分が好きかとか、そういうことですか。

 

 「それは当然あります。あと、あいつが気に入ったとか、気に入らないとかもある、人間ですから。俺をだますほどのやつだから、こいつなかなか面白い。だますっていうのは、作品でだますんですよ。なんか作品でだまして、『どうしてこれ作ったの?』って聞いたら、作った本人がなんか面白いこと言ったとする・・・それで気に入った!とか。例えばですけどね。(裸の王様みたい・・・。)そういう付き合いで売れてったりもするので、まあ、いろいろです。

 そういう人たちや業界を相手にし始めると、いわゆる分かりやすさというよりは、むしろ分かりにくさをいかに追求するか、みたいなことになってきたりもする。しかも、単に分かりにくい、じゃない、ちょっとやそっとの『ひねり』なんてものでもない、本当に最後の最後、どこまでいっても謎しか残らないようなものにストレートにたどり着いて、ようやく、面白いって言われたりするんです。なぜならば、そういう人たち、謎が好きだったりするんですよ。でも、そんじょそこらのものとか、わざとらしいものだったら、全然、お呼びもかからない。

 最初から、一切自分の琴線に触れないようなものだったら、それは存在すらないようなもんだけど、琴線には触れる、でも何なのか分からない・・・その何なのか分からなさ加減に対して、すごく投資したくなっちゃったりする人たちもいるんです、いまだに。それはそれでたまたまそういう人たちだけど、つまりどういう層とか、社会とか、が、対象になるかによって、住んでいる世界によって、アーティストの態度も、あるいは作品も、いろいろになっちゃうとは思うんですけどね。

 コレクションする側にしても、徹底的に、イデアルなものを追い掛ける人たちも、中にはいれば、もっと本当に、単純に自分の趣味だったら何でもいいっていうのか、いろんなもの、本当になんでこんなのがいいんですか、みたいな訳の分からんものをコレクションしている人のも、結構面白いんです。ダーッと並べられると、なるほどそういうことか、面白いわ、みたいな。でも、『いいねえ、こんなもの集める時間があって。そんなことにエネルギー使える身分は大した身分だ』、みたいな人たち、いまだにいますしね。」

 

 まるで素人っぽい感想だが、少しお話を伺っただけでも、アートとは一口にこうだということは、本当に言えないものだなあと感じた。

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