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第7回 芸術性は、どうやって

評価するのか

 アーツ前橋で行われている、のぞみの家とのプロジェクトというのは、アーティストが、のぞみの家で暮らしている母子と関わり、やりとりをする、その中で生まれていく交流が形になっていくという取り組みだ。一方的にアーティストが作品を提示するという形ではないところが、とても興味深い取り組みだと思った。でも、こういう作品の芸術性って、どういう形で評価するのだろう。

 

 -私は実際に、この展示っていうのは、見ていないので、何とも言えないんですが、これを一つの作品とするならば、どこを評価するのかなってちょっと思ったんです。つまり、子どもたちも写真を撮ったりしているわけですよね。そういう写真とか、出来上がった作品の素晴らしさを評価するのか、それとも、この関係性において、お互いが変わったり、作品が変わっていったって事自体を含めて、そこを評価するのか、どこをもって、芸術性が高いとか、低いとかっていうのを見るのかなっていうのを、ちょっと思ったんですけど。

 

 「なるほどね。それは、思いますよね。すごく簡単な言い方をしてしまえば、そのどれでもいいです。関係性でもいいし、個々の子どもたちが作ったものに注目してもいいし、本来は作品の見方は自由だし、自分勝手に見るなら見ればいいので、本当はどこでもいいんです。

 ただ大事なことは、現実に起こっていることを、ただただ、そのまま伝えたはずなんだけれども、伝えたことで展示された作品というのは、伝えられた現実そのものではないんですよ、やっぱり。作品として置かれてしまうと、そこには子どもたちも、お母さんたちも実際にはいないんですよね。美術館の中に、切り取られたものとしてやってくる。

 

 美術館のお客さんの中に、その子どもたちやお母さんのことを直接知っている人もいるかもしれないけれども、事が事だけに、問題が問題だけに、今回なんかも、名前も伏せられているし、顔も見えないような人であるし、居場所が分からない、基本的には分からない、誰なのかが分からない形で、出してきているわけですね。

 そうすると、非常に抽象的な—ドメスティックバイオレンスのようなことがあったという点では具体的なんでしょうけれども—表現としては、抽象的な人たちの行為、あるいは関わりとして、そこに置かれているという点がちょっと大事なところです。だから僕らは、決して現実に触れているのではなくて、現実もどき、みたいなものに、って言ったら失礼かもしれないけれども、でもやっぱり、実際には、そこの子どもたちとは遊べないから、子どもたちの、あるいは親御さんたちの、ちょっとした考えていることとか、今日思ったこととか、そんな言葉がつらつらあったりするわけだけれども、そこに、どれだけのリアリティーを、自分の内側に醸し出せるかっていうところで見るわけです。

 で、たわいのない言葉だったりするわけ。今日は、何々して面白かったみたいな程度の、例えば、子どもの言葉とか、お母さんの言葉とか、書いてある。非日常的な、特別な出来事かっていったら、確かにアーティストがちょっとやってきて、何か問題提起をしてみたり、こんなことをしてみたらどうだろうかって提案したことに対して、手紙で答えていたりするわけだけど、その手紙の内容なんかは、別にそんな特別珍しいことが起こるわけじゃないから、こういうことが面白かったとか、うれしかったとか、こんなふうに思うみたいなことが書いてある程度のことで、誰にでも起こり得そうなことなんですよね。

 だから、つまらないと見るか、なるほどと見るかは、やっぱり見る人によって変わっちゃうよね。でもそれは見る人によって変わるんだけど、見る人も、何か残されたものを見ているだけであって、本人と会っているわけではないし、その家に実際行っているわけでもないというとこで、それが『表現』になっているわけです。

 その表現であるという点で、それはアートの枠組みに入ってくる。(芸術性うんぬんもここに関わってくる。)でね、良いか悪いかは、いろんな人が判断すると思うけど、それぞれの判断に任せればいい、と、やっぱり僕は思っているところがあって、実際見る人が判断しているのですよ。なので、例えば芸術性が高いかどうか、っていうのは、それは芸術性の高さを評価したい人が、一生懸命見て考えて評価をすればいいことで、それで、その人の世界観が変化したり美学や『芸術性』がリニューアルされたりしてゆくでしょうね。でも、芸術性が高いかどうかを気にしない人は、例えばドキュメンタリーとして楽しんだり考えこんだりすればいいし、全く箸にも棒にもかからない人は・・・そもそも美術館に来ないだろう、と思いますけどね。」

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