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第9回 水戸芸術館

 ここからは、黒沢さんが、実際に美術館での学芸員として関わられた美術館について、詳しく伺っていく。

 

 「当時の美術館では、水戸のちょっと前までは、美術館としては、東京では西武(セゾン)の美術館というのが、新しい美術の動きに対してすごく影響力をもっていた。その前にも、一時的にしかなかったけど、東高現代美術館とか、いろいろなアクションを起こしたオルタナティブなアートの拠点もあった。その延長線上にあって、バトンタッチをされるように、水戸芸術館にもそういう役が回ってきたかなという、そういうタイミングで。

 当時の水戸芸術館は、いろんな美術館に対して、提案をしていくというプログラムの実践を平気で許したんだよね。水戸市は、結果として、たかだかいち学芸員程度のアイデアごときに、いいよ勝手にやれよ、やってみろよ、という態度(覚悟)だったんですよ。それは理由があって、美術館をつくろうとした市長さんという人が、普通だったら言わないはずの、『行政は、金は出すけれども、口は出さない』って言っちゃったの。

 

 というのは、その市長さんという人は、磯崎新っていう建築家と、鈴木忠志という演出家と、吉田秀和という音楽の評論家と中原佑介という美術の評論家の人たちに、その運営、設計、あらゆることを託して、もちろん相談しながらだけど、協議してもらって、そこで出た結論を、そのままいきましょう、それでいきましょう、とやった人なわけ。

 『それに対して、行政は、ああだこうだ言うな』と。『これだけの専門家の人たちが、一生懸命考えて、これでいくとやっているんだ』と。だから、行政は、当時防衛予算1パーセント論っていうのがあった時代だったんだけど、それに当てつけるようにして、『文化予算1パーセント出す』と。『市の予算に、文化予算の1パーセントを、この水戸芸術館っていう所のために割く』と、その宣言だけして、『あとはもう、本当に専門家に任せているんだから、口を出さない』って、あちこちの説明会でそういうことをいっぱい発信してきたわけ。

 別に、法文になっているわけでも何でもない、条例になっているわけでも何でもないんだけど、当時行政は金を出すけど、口を出さないことが正しいのだと、刷り込みがあった。刷り込みと言っちゃ申し訳ないけど(プロパガンダというべきか)、市民の人たちの中にも、あるいは、市役所の役人の人たちの間にでも。だから予算はこれしかないけど・・・逆に言えば、これだけある。あとは自由にやってくれ状態だったんです。

 

 なおかつ、集まってきた学芸員の人たちで美術館経験者って、たった1人しかいなかった。何人体制だったかというと、ちょっと助手みたいな人も含めて、6人、プラス、芸術監督、及びその上に総監督みたいな感じなんだけど、総監督という人は美術評論の人だから、美術館の運営とか、つまりキュレートリアル、学芸員ではない。

 監督という人は、唯一、美術館にいたことのある人なのね、東京都の美術館。残りの人間は、みんな出版社にいたとか、編集してましたとか、国際展のこれを手伝ったことがありますとか、こういう美術のこういう方面研究していましたとかっていう人であるんだけど、美術館にいたことたことのある人って幸いにして、(監督職以外)1人もいなかったんだよ。その状態でスタートしちゃったんだよね。

 そうすると、どうなるかっていうと、そもそもコレクションがないっていうだけで、美術館としては珍しいわけですよ。珍しいというか、当時、そんなの美術館って呼んでいいのかっていうくらい、議論になるくらいのものだったんだけど、だったらどうしたらいいのか、新しい美術館はというのを、みんなが考えたんです、それぞれの立場でちゃんと。

 要は、美術館ってこういうもんでしょって常識を、ちゃんと知らなきゃ覚えなきゃっていう気持ちも、一方ではあるんだけど、でもそんなことよりも、ここはどうあるべきなのかっていうところに、かなり意識的に集中できたんですよ、そのメンバーの人たちが。だから、結構新しいことが可能だった。

 水戸芸術館には、教育普及部門の学芸員として入った。漠然と、音楽とも美術とも演劇とも違う、またそこからの距離を置いた、別な形というのがあるのかなと思って入ったわけ。結果的には、他の部門は学芸員が何人もいて、それぞれの部門に芸術監督という人がいて、さらに芸術総監督っていう組織になっているのに、教育普及部門だけが学芸員1人で、監督もいなくて、総監督もいない。

 あれ?これって、部門って書いてあるけど、1人じゃんって。そうすると、僕はもともと美大出だったということもあるし、基本的な専門性は、美術の方にあったので、美術部門が教育普及部門っていうのを吸収したわけです。それで三つの部門でスタートしたっていうのが水戸芸術館で。だから、教育普及部門で入ったんだけど、美術部門でギャラリーのほうの仕事に、収まっちゃった。」

 

 とはいっても、その後のお話を伺っていると、黒沢さんが、その美術部門において、教育普及的なアプローチをもって、お仕事されていったということがうかがえる。

 

 「教育普及って、そもそも何よっていうところから、今度、問うていかなきゃいけないわけで、それは、非常に難しいですよね。『教育』なんておこがましいしね。『普及』っていえば、ポスターでもばらまいて、宣伝広報でもしていけばいいかなっていう感じだけど。

 でも、広報は広報で、本当はパブリックレーションの別な専門性があるわけだし、いっぽうで教育っていうのは基本的に、個々の人を相手にするわけです。そのことが、“マス”との違いということを考えなきゃいけないことの、決定的な最初のきっかけになった。だって、マスじゃないんですもん。相手は。

 7歳の子どもであっても、その子のために何かできなきゃいけないし、でも、7歳の子どものほうが、はるかに自分より深い経験をしている場合だって、あるじゃないですか。例えば、家庭の事情により、自分には全く覚えのないような経験をしている―その子のほうがよっぽどその手の経験はある、っていうことがあったりするでしょう。

 その経験の上で、この子はどういうふうに自分自身を変えていったり、経験を積んでいくのだろうかっていうところに、個別に応じてゆくのが、本来の普及のプログラム、教育プログラムなんです。でもできませんよ、そんなこと一人一人に。当然。できないんだけど、それが理念としては、あると。

 その理念っていうようなことから順番に問いただしながら、自分がすべきことをつくっていかなきゃいけない。でも、予算にも限りがある、人材にも限りがある、スペースにも限りがある、時間にも限りがある中で、あるいは時間はこれだけ使える、空間はこれだけ使える、お金はこれだけ使える、一緒にやれる仲間がこれだけいるという中で、何ができるのかということを、やっぱり言ってみれば、手探りだけれども、全くの盲目的にやるのではなく、ある種の勝算を持ちながら、これに違いないっていう狙い打ちをする、それを、順番にやっていくわけです。」

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