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第3回目レバノン編

​寺尾さん難民キャンプへ行く

 まずは、パレスチナの歴史をごく簡単にかいつまんでご紹介します。実際の歴史はもちろん、もっと複雑でいろいろなことが起こっているのですが、取りあえず、このまとめは、インタビューの内容の理解ができる程度の、ざっくりとした内容にとどめています。

 まとめに当たっては、以下のサイトを参考にさせていただきました。ご興味のある方は、ご覧になってみてください。

(参考サイト:「パレスチナ子どものキャンペーン

GLOVAL INNOVATION navi」)

パレスチナ領地の変遷

画像グリーンがパレスチナ人が暮らす場所​ 白が、ユダヤ人が暮らす場所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2001年の発足以来、ハートアートプロジェクトは、レバノンの難民キャンプへ、付近の情勢悪化により許可が下りない年以外、毎年夏、現地で絵画指導を行っています。寺尾さんも、2008年より、ワークショップに参加されています。レバノンでの体験を伺いました。

 

 

寺尾さん、レバノンの難民キャンプへ

 「上条さんと話がつながって、次の年の夏、行くんだったんだけど、危なくて、全員が完璧に行けないときがあって、じゃあ次の年と思っていたら、その2008年の夏も『かなり情勢が危ないから、経験者だけにしました』って言われて、『私、全然縁ないんだわ、行けない! じゃあもう私、ニューヨーク行くわ』って。」

-(難民キャンプに行けないから、ニューヨークっていう所が、寺尾さんらしいです・・・。)

 「5月の末にニューヨークに遊びに行って、帰ってきたその日に『7月に行くことにしたけど、どうする?』って電話がかかってきて、帰ってきたばっかりで、『えーっ?!』て。帰ってきて、わーっとしてるけど、でもとっても行きたい、やっぱり行きたい。『行きます!』って言って、またスケジュールをいっぱい調整して。教室があるから大変だったけど、でも結構、わがまま通す人なのね、私ね。(笑)

 レバノンに行くときは、いつも事前に領事館にパスポート送って、またパスポート送り返してもらったり、いろいろ書類を書いたりするのね。レバノンのキャンプは、通常は、検問所みたいな所はないんだけど、写真を撮って、そこの許可書を持って入らないと入れないキャンプもあった。そこのキャンプはすごかったよ。もう荒れ果ててた。銃撃戦があったのか、弾がいっぱい打たれた車とかね。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レバノン、ベイルートの難民キャンプの様子

 「ベイルートの街って、結構きれいなんです。パリ風のすてきな所。劇場とかもあるし、私たちがハートアートプロジェクトの10周年記念のイベントをした、立派なユネスコ会館という国連の建物もあったり。そのときは、素人考えか分からないけど、こんな立派な建物を建てないで、支援に回せばいいのにって思ったけどね、そういうのがあったり、ベイルート市民で市の中心部に住んでいる人たちは、いわゆる日本で言うような、5、6階建てくらいのマンション、アパートメントに住んでいるね。そういう一角にある、ごみごみした所の一帯が、ベイルートの難民キャンプで、大体、1キロ四方くらいの大きさです。

 でも一歩難民キャンプの中に入ると、ゴミの処理はされてないし、そこのキャンプ内に入ったら、ごちゃごちゃしてて迷子になる。やっぱりよそ者っていうのは、すごい警戒するので、絶対1人じゃ歩いちゃいけないんだけどね。そこのキャンプの人と一緒に行動してたら、あの人の知り合いだなってなるんだけど。

 難民キャンプって言うと、最初テントみたいに思うじゃない。そうじゃないからね、ブロックみたいなのを積み上げて家にして、一応、ちょっとしたリビングもあったり、部屋もあるんだけど、だんだん上に積み上げていくのよね。

 

 難民キャンプの中の家にも行ったことあるけど、5、6階建くらいになっちゃうと、もちろんエレベータとかないから、一生懸命、階段上らないといけないし、地震が来たら、どうなるんだろうって。上条さんなんか、私よりもっと前から行っているから、だんだん高くなっていっているって言ってる。横に広げられないから。もちろん家財道具もあるし、生活は、深く知らないけど、(生活費は)その人たちだけで、まかなってはいないと思うんだけどね。」

 

-ちょっと怖いですね。

 

 「怖いよ。そこに電気も一応通ってて、水も来るけども、水は上の方にためてて、出なくなっちゃったり、水がなくなっちゃったりとかもある。

 ベイルートとかのキャンプは、検問とか何もないのよ。難民の人たちは勝手に出たり入ったり、街を歩いたりしても、全然いいわけね。反対に、イスラエルにあるガザ地区の人たちは、面積自体は広い、例えば、私たちの泊まったホテルも2階建てだったし、敷地も庭みたいのがあるし、土地があってそこまで混雑していないけど、そこから出ちゃいけないのね。ベイルートの人たちは、街に出て歩けるけども、もちろん、例えばじゃあ、ちょっと日本に遊びに行こうかなっていうのは、絶対無理だし、キャンプの外で仕事とかももちろん駄目よね。」

1946年当時の

パレスチナ

19世紀にシオニズムの動きが高まり、迫害され世界中に散らばったユダヤ人が、パレスチナに移住・入植し始める。

※シオニズムとは…ユダヤ人による、シオン(エルサレム)の地に帰って故郷を建設しようとする運動。

1947年

国連の分割決議案

国連がパレスチナにユダヤ国家とアラブ国家を擁立する「パレスチナ分割決議案」を採択。

​(ユダヤ人に50%以上の土地を与える内容であり、アラブ側は拒否)

1948年

国連案に従い、

イスラエル建国

アラブ諸国は攻撃

第1次中東戦争へ

​約70万人者の

パレスチナ人が、難民となり、

ヨルダン川西岸地区や、ガザ地区、ヨルダン、シリア、レバノンなど近隣諸国へ。

現在

(画像は2007年のもの)

レバノンでは、

ベイルートの他

丸印の所が、

難民キャンプがあり、

ハートアートプロジェクトの皆さんが活動されてきた場所

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