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第6回目レバノン編④

​ボランティアを通して考えたこと

ボランティアを通して考えたこと、気付いたこと、

日本の文化との違い

 

 「レバノンの難民キャンプの子どもたちは、国連の学校に通っているよね。学校自体は、私は見たことないんだけど、予算があるから、読み書き、計算とかだけで、絵の時間とかはもちろんなくって、成績が良くなければ、無駄だから、やめさせられちゃう。日本だと、逆にそういう子を頑張れってやる、そういう子を教えてあげなくちゃいけないんじゃないかなって思うんだけど。」

-その国連の学校では、授業時間が短いのに、教科書はすごく分厚くて、先生もカリキュラムをこなすのに必死で、どんどん子どもが振り落とされていく、ついていけない子が増えていると聞いています。一生懸命勉強したとしても、将来的に何かそれを使って仕事をして、発揮するとかそういう場っていうのは、全くないわけですよね。そういう詰め込み教育だけ、一応されて・・・。

 「私も最初の年はそれを思った。パレスチナの子たち、元気なかわいい子たちよね、私も日本のかわいい子たち、教えてるけど、日本の現状としては、努力して頑張れば、基本なりたいものになれますよね。例えば、建築家になりたかったら、一生懸命勉強して、願えば叶うっていうのがあるけど、この子たちは、難民キャンプの中でしか経済活動できないし、キャンプも、100年間は借りられるらしいんだけど、もう70年くらいになってるから、それから先は、そこに住めるかどうかも、分からない。だから、子どもたちは、一生懸命勉強して、これになりたいなって、宣言できない。大学行きたいって行っても、行けるかどうか分からないんだよね。

 でもだからって、子どもたちがやる気ないとかいうんじゃないのね。そこが日本と違うっていうか、希望をなくしてないの。逆にこちらが不思議なくらいなんだけど、いつか変わるって思っているんだろうね。もちろん変わらなきゃいけないんだけどね。

 私、行き始めて2年目から、国籍がないってどうなんだろうって、考えるようになっちゃって、自分には国籍があるから、地に足着けて帰る所もあるし、パスポートもあるし、だけど、そういうのもないんだよね。国籍もないし、国自体がないからね。間借りの家に住んでいるようなものじゃない? それが全体で、一生続く。一体、どんな感覚なんだろうなって。まだ結論は出ていないけど、そう思った。

 湯涌創作の森の黒沢さんも言ってたんだけど、『要するに、人間として認められていないんだよな』って。その人たちを動物扱いするとかそういうんじゃないんだけど、人間の最小限の基盤みたいなのを剥奪された人たちなんだよねって。

 たまたま歴史を見たら、私の生まれた年に、パレスチナの人たちは難民になっているのね。私は今、68歳で、1948年生まれだから、私より若い人が圧倒的に多いじゃない。みんな、生まれて難民しかしたことがないっていうような感じ。私の年齢より下の人は、全部、祖国を知らないわけよね。だけど、自分たちにとっては、そこが祖国だっていう意識が、すごく高い。今いる所は、仮りで、いずれは帰るみたいな。ここに根を張ろうとか、そういうんじゃないみたい。」

 

-祖国は知らないけど、自分なりのイメージを持っていて、大事にしている。

 「そういうふうに、きっと育てられているんだと思う。だから、ハートアートプロジェクト10周年記念展覧会のときもやっていたし、ガザでも、みんな自分たちの文化の民族の踊りをしたり、衣装を着たりして、ずっと受け継いでやってるもんね。日本でも踊る人がいなくなっちゃって継承する人がいなくなったとか、そういうの、あるじゃない? 私も渋谷に育って、何にもそういうものがない所で育ったもんだから、すごく、そういう大事なものがあるっていうのをすごいなと思ったし、それを伝えようとするエネルギーを感じたわね。」

 

花を飾る習慣のないパレスチナの人たち

 「パレスチナの人たちには、お花を飾るとか、そういう習慣がないみたいなの。以前、ブータンに旅行で行ったんだけど、あそこは、仏教だから殺生しないということで、全部造花なのよね。

 それとは全然違う理由で、ちょっと気持ち的に、余裕がないのかもしれない。花は咲いているんだけど。バーレーンで、ベイルートからちょっと遠くの難民キャンプに行ったときに、絵を描くお花を活けるのに、花瓶がないのね。だから、ペットボトルみたいのを切ったり、水を入れるような容器に入れたりして。で最初、『お花、用意します』って言ってくれて、じゃあよかったって思ってたら、そしたらバラみたいな花を、首だけ切って、ぽんぽんぽんって置いてあるのね。子どもたちも、もういっぱいいるのに。『え、花?!』みたいな。

 花を描くっていう、そういうのもあんまりなかったんだろうね。だから花を描くとき、どんなふうにして描くかとか、私たちにしてみたら当たり前でも、そうじゃなく育った人たちにしてみたら、分からないよね。でも逆のこともあるよね。向こうにとっては当たり前のことで、私が知らないこともいっぱいあるよね。」

違ってもいい

 訪問時のパレスチナの人たちの写真を見せていただいていて、一つ気が付くのが、みんなそれぞれ、服装がバラバラだということです。いわゆる中東の女性を思い浮かべるときにイメージする宗教的・伝統的な服装をしている人もいれば、全く西洋風の格好をしている人も。

 日頃、中東の人たちの服装や教育のことなど、女性の暮らしの様子を伝え聞くと、いわゆるイスラム社会こそ、こうでなければいけないとか、こうすべき、というものでがんじらがらめになっているようなイメージがあったのですが、寺尾さんのお話によると、意外にも難民キャンプの中は、そうではないようです。

 「ガザはみんなブルカ(ヒジャブ)をかぶってたけど、でもベイルートの場合は、別にかぶっていない人もいるし、Tシャツを着ているような人もいるし、難民さんたちでもいろいろ。でもお互いそれが、例えば、日本だと、それを批判したりとかね、あの人あんなはだけてとか、年の割りにとかあるけど、そういうことはないみたいね。そんなふうに言う人、いるじゃない? そういうのはない、それをすごく認めてるんだなって。深く聞いたことはないけど、感覚的にそう感じた。」

-逆に日本のほうが、人と違うことをしてはいけないとか、そういうのが強いのかもしれませんね。

 「そうそう。みんな、宗教的なことで、それを信じているからしているんであって、人がしてるからしてるとか、みんながしてるからしてるというのは、根源が違うんだろうなって。していない人にも、パレスチナの難民の人たちは、別にそれで宗教がどうとか、あいつは不謹慎だとか、そんなことはないし。だから違っていいってとこが、居心地がいいわね。

 私は東京で育って、自由な学校に行ってたから、自分らしいっていうのがいいことだったのに、30年くらい前に金沢に来て、『変わっている』って言われて、え?って思ってたから。」

寺尾さんが出会った

レバノンの難民キャンプの少女​

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